浴槽のないアパート2
「富士見湯日記」より。
11月20日 晴れ
「ちぐちゃんはシャワーだけで、お風呂寒くない?」
「え?」
アパートのドアの前で、隣の部屋に住む大学の先輩に声をかけられた。言葉につまった。
「私こないだね、通ってる銭湯のおじさんにバイトしないかって言われちゃった」
え、銭湯。 銭湯に通ってるんですか。
それまで銭湯というものは、私にとって身近な存在ではなく、家のそばに普通にあるものだとも思わなかった。先輩の話だと、どうやらすぐ近所らしい。
地図で調べると、「富士見湯ケンコー銭湯」という建物が自転車で10分くらいのところにある。
「今まで挨拶しかしてなかったんだけど、いきなり『バイトしない?』って声かけられちゃって…ちょっと変わったおじさんでね…」と、先輩は話を続けている。
私は「明日、銭湯に行ってみよう」と決意していた。
11月21日 曇り
先輩に必要な持ち物を聞き、さっそくシャンプーやタオルを入れた鞄を自転車のカゴに入れ、夜道を走った。大通りから横道に入り、しばらく人気のない商店街を走っていると、曲がり角に「ゆ」と書かれ、ピンク色に輝く看板が見えた。
「こ、ここ…?」思わずつぶやいた。建物の周りが派手なピンク色に発光していて、結構、異様な雰囲気だ。怪しい。銭湯ってこういう雰囲気だったかな。
などと思いながら、そろそろと建物内に入っていく。スニーカーを脱いで靴箱に入れた。板状の鍵を抜いて、自動ドアから中に入る。
暖かい。オレンジの電球の光に包まれたロビーは、張り紙や物でごたごたと溢れかえっていて、一瞬どこに目をやったらいいのか分からない。様々な物で雑然としてはいるものの、何故か包まれているような安心感があった。
(あ、人がいる)
シャンプーや石けん、カミソリ、歯ブラシなどの細々としたものがあれこれ並ぶ受付(のようなところ)の向こうに、のちにお世話になる、ここの奥さんが同化していた。
雑多な物のあいだから顔を覗かせて、こっちを見ている。
「あ、あの。」
「はい、それで入浴券買ってね」「は、はい。」
ぎこちない動きで券売機のチケットを買って渡す。
そして奥さんに「いってらっしゃい」と促されるまま、女湯ののれんをくぐった。
慣れない場所でも、行ってみればなんとかなるものだ。
つづく。