浴槽のないアパート3
「富士見湯日記」*1より。
脱衣所にいるお客さんは、私と年配のおばさんの二人だった。ぐるっと中を見渡して、空いているロッカーを見つけ、のろのろと荷物を入れる。
(あ、体を洗うタオルを忘れた。まあ、手で洗えばいいか。)
横に「貴重品は風呂ントへ」と書かれた看板がかけられている。
「風呂ント」とは、さっきの受付のようなところだろうか。財布にそんなにお金も入ってないし、人も少ないし、まあ大丈夫だろう。顔見知りがいないと、大胆になるところがある。思いきりよく、さっさと服を脱いだ。友人と銭湯に行ったりすると、何かともじもじとためらって、いつでも脱衣所を後にするのは最後だ。
「外、寒かった?」
脱衣所にいたおばさんに唐突に話しかけられ、ちょっと身じろぎした。
既に服を脱いでしまっているので、会話をするのはさすがに恥ずかしい。しかし恥ずかしさを悟られる方が、もっと恥ずかしい。
「あ、はい〜。寒いですね〜。」と、平静を装い、この場に慣れている様子で答えた。
「最近寒くて、嫌になるのよねえ〜」
そうですね〜…。
タオルを忘れてきたので、体をうまく隠せない。
「氷河期が近づいてるとか言うし。怖いわよねえ〜」
手に持っているシャンプーやら何やらを入れたカゴを体の前に持っていったが、心もとない。
「そうですね…、でも氷河期が来る頃には、生きていないんじゃ…」
恥ずかしさをこらえて会話に集中した。
「関係ないわよねえ」
うふふふ、とおばさんは楽しそうに笑うと、「じゃ、おやすみなさい」
ニッコリと微笑み行ってしまった。
恥ずかしさから解放された私は急いで浴場へ行き、シャワーを浴びた。浴場には、他に二人しかいなかった。
シャワーを浴びた後、そろそろとお湯に浸かった。冷えた体が、ぐわーっと、急な速度で温まっていくのを感じる。足先から、腕の先までが、びりびり痛い。
肩までお湯に浸かったのは久々だった。タライのお風呂とは大違いである。気持ちいい。これこそ、私が求めていた感覚だ。
湯船のふちに頭を乗せ、高い天井を見上げながら、しばらく快感に身を任せていた。
それから、誰も見ていない時に少し泳いだ。
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*1:「富士見湯日記」とは……せんと♨︎ガールの学生時代のアルバイト先、「富士見湯ケンコー銭湯」での出来事を日記に綴ったものなのです。(銭湯の名前をクリックすると、地図が出ます。