北上夜曲1
2011年 3月30日 晴れ
お客さんの少なくなった富士見湯は、今日も営業中だ。
この日も二時間近く、宴会場には誰も来ない。私は湿らせたティッシュで炊飯器を磨いていた。
「誰もいねえなあ〜、おい」
間延びした声が座敷に響いた。
「あ、田中さん」
キッチンの開き戸から顔を出すと、田中さんはちょっとびくついて、「お、おぉ」と言った。
田中さんは、ゆったりとした愛嬌のある話し方と、円らな瞳が、何とも言えない味のある人だ。運送会社の社長さんらしいが、いつもほんわかと癒し系ムードが漂っている。
「コーラ、お願いね」
田中さんはゆっくり席に着いた。
いつも、コーラを頼み、門倉有希の「ノラ」などの、女性ボーカルの歌をしっとりと歌い、ソフトクリームのストロベリー味を食べて帰っていく。たまにご飯を頼むこともある。
時々奥さんも一緒に飲んでいくのだが、仲睦まじい夫婦で、見ていて微笑ましい。昔は二人ともやんちゃだったらしい。そして、歌が上手だ。
今日は奥さんがいないせいなのか、
「おねえちゃん、一曲歌ってよ」
と言ってきた。
「え、歌ですか?」
時たま、歌うたって、と頼まれることがあると、聞く事には聞いていた。
「あれ知ってる?中央フリーウェイ。」
私が好きで、よく口ずさんでいる歌だった。これも何かの縁だと思い、曲を入れ、意を決してエプロン姿のまま、そろそろと舞台へ上がる。
マイクを握ると、前奏が流れ出した。意外に音が大きく、びくりとした。
顔が熱くなった。
まだ何もしてないうちから
「おぉ〜いいじゃないの〜」と部屋のはじから、田中さんが拍手をしている。
こんなに広々した空間で歌うのは、田中さんと二人きりとは言え、けっこう、ひやひやする。田中さんが霞んで見えてきた。唾を飲み込み、歌う。
田中さんが曲の合間にかけ声を入れてくれるたびに、だんだん緊張が解けて、気分が高揚してきた。
つづく。