背中流し
富士見湯日記より。
※富士見湯日記とは・・・せんとガールが学生の頃にアルバイトをしていた「富士見湯ケンコー銭湯」での出来事をまとめた日記なのです。最初から読む方はこちらから。
12月2日 雨
バイトが早めにおわり、上機嫌で、下の階へ降りて行く。今日は、ゆっくりとお風呂に浸かれるのだ。いつもバイト後は閉店間際に入ることが多いので、富士見湯での入浴は、大抵せわしない。
「ちたねちゃん、ほら、シャンプー」
アキさんが、特製バイトさん用シャンプーが入ったかごを渡してくれた。
夕方のこの時間帯は、銭湯の中もわいわいと活気がある。皆どこか楽しそうである。
混雑した浴場を見回し、空いている居心地の良さそうな蛇口を、何とか見つけた。
あ、整体の先生だ。頭を下げて、挨拶した。
「お疲れさま !背中を流してあげるわよ !」
え、あ、と躊躇する間もなく、先生は、手際よくお風呂道具一式をかき集めて、さっと私の後ろへ回った。
「後ろ向いててね !」
先生は、ゴーヤぐらいの大きさの、柄の無いブラシを、私の背中に当てた。
ガシガシガシ !
思ったより、毛が固い。というか、痛。いたたたた。
鏡に移った自分の目が、真ん丸になっている。
先生はいつもの温かい笑顔のまま、大きなストロークで勢いよく私の背中をこすった。
(これ…野菜を洗うようなブラシじゃ…。)
目の焦点が定まらなくなってくる。
さっき、ふと目に入った先生の背中は、つるつるのぴかぴかだった。私もこれに耐えて肌を鍛えれば、ずっと美しい背中でいられるのかもしれない。と、瞬時に自分を励まし、少し前方に傾きながら床を見つめ、後ろからの衝撃に耐えた。
「はい、終わったわよー」
終わった…。
先生はお湯をざっと背中にかけてくれ、今度は何か、ざらざらしたものを塗りだした。
「これ、なんですか?」
「塩 !塗るといいのよー」
し、塩?
「傷口に塩」というフレーズが、頭にぱっと浮かんで消えた。荒い塩が、すばやく、背中全体にざかざかと刷り込まれていく。
傷口が開いて沁みたりすることはなかった。
「ほら !ちょっとさわってごらん !」
先生に促され、背中をなでて、「うわっ !」と叫んだ。
「すべっすべです !」
それに背中の皮膚が、柔らかくなったようだ。
「うわ〜気持ちいい〜」
「でしょう〜」と誇らしげに言いながら先生は、お湯につけたタオルを背中にべちゃりとつけて、温めてくれた。じんわり、温かい。さっきまでの傷が癒えていく。そんな気分になる。
「先生、私もお背中流しましょうか。」
と言ってみたが、
「あ、いいのよ、わたしはいつもあの人に流してもらってるの」と、鏡の向こう側のおばあちゃんを指差して、先生はお風呂道具をまとめ、行ってしまった。
まあ、私も先生が満足するような背中の洗い方ができるかというと、そんな自信はない。
よく観察してみると、ここの常連さんは毎回、特定の人に背中を流してもらっていることが結構あるみたいだ。一見他人同士に見えていた離れた場所に座る二人が、「佐藤さん」「あ、はい」という声の掛け合いだけで、背中の流し合いっこが始まったりしていた。「背中を流す」という行為だけでつながっている関係、というものもあるのかもしれない。
私も研究を重ねて、自己流の背中の流し方を確立させたら…、
みんなから求められる背中流し人にいつかなれるかもしれない…
と、湯船の中でくだらないことを考えていた。
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