魔法使い1
「富士見湯日記」より。
・・・これは、せんと♨︎ガールこと私ちぐた氏が、銭湯巡りを始めるきっかけになった、「富士見湯」での出来事を日記に書き記したものである。
時間軸にそって最初から読む方は、こちらから。
1月23日 晴れ
踏み台にしていた椅子の足が折れて、狭いキッチンで派手に転倒した。
戸棚の高い場所に、食器をしまうところだった。
「あ。」
もう一人のバイトの先輩であるアイコさんが、一部始終を見ていた。
私は肘と腰を打って、冷蔵庫とキッチンワゴンの間で、尻餅をついていた。脚の折れた椅子が転がっている。一瞬の出来事だった。
「ちぐさちゃん、だいじょうぶ?」
あまりに悲惨な落ち方をしたので、驚きのあまり涙が出そうだったが、アイコさんの、のんびりとした低めの声に釣られ、
「はい。なんか、椅子が壊れたみたいで」と、何事もなかったようにすっくと立ち上がった。
「壊れたねえ」
4つ年上のアイコさんは、とにかくいつでも落ち着いているのだ。
同じ美大の院生で、大学一年生の時からこの富士見湯で働いている。ここのアルバイトの中では、古株だ。
肩の力がいい感じに抜けている。
私が富士見湯で働き始める少し前、美大の教室の一室で、アイコさんが歌のコンサートを企画したことがあった。
富士見湯の常連さんである歌の同好会の人々を、大学に呼び、歌ってもらうイベントだ。それを聴きに行ったときに見たのが、最初である。
アイコさんは主催者で、司会進行役をつとめているのに、道ばたで近所の人と話しているかのようにリラックスしていた。
薄暗い部屋で、ミラーボールのカラフルな光が部屋全体を照らし、大音量でカラオケの演奏が流れている。観客である美大生たちは、予め配られていた蛍光のスティックを、それぞれ振っていた。
「じゃあ、次は、サイトウさんです。」
アイコさんは表情を変えず、声に抑揚をつけるでもなく、淡々と司会をこなしていた。場の雰囲気とは裏腹に、常連さんたちは皆、固くなっていたが、アイコさんだけは別の次元にいるようだ。
常連のおじいちゃんおばあちゃんたちが、「サイトウさん、いつもの調子で!」などと励まし合っていたところが、微笑ましかった。
アイコさんは、いつもの控えめの声で、「椅子を直そう」と言うと、ガムテープで椅子を直し始めた。慣れた風である。椅子の足が折れることは、ここでは日常茶飯事なのだろうか。
アイコさんがカラオケの曲を入れる担当をしたあとには、リクエストカードの裏に、いつも不思議な女の子の絵が残されている。普段から何を考えているのかよく分からないけれど、絵を見ると、もっと分からなくなる。
常連さんと、まるで家族のように自然体で話すところが、印象的なアイコさんだ。
「魔法使い2」へつづく。
富士見湯ケンコー銭湯 Data
住所 | 東京都東大和市南街6-1-25 | ||
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TEL | 042-567-1126 | 営業時間 | 13:00~24:00 (土曜、日曜、祝日は12:00から営業) |
定休日 | 火曜日(祝日は営業、月末の火曜は営業) | ||
アクセス | ・鉄道
・バス 西武バス・第二小学校前停留所・徒歩1分 |
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